群馬県地図
 
     養蚕秘録 養蚕新説 養蚕新論 清温育法 荒船風穴
     一代雑種 19世紀の養蚕国 米国での養蚕 など
           群馬 絹の里めぐり(その2) 
       − 富岡製糸場を陰で支えた −          養蚕技術の開発                               1.はじめに  群馬県は、かつて繊維産業で栄えた県です。 昭和22年に作られた「上毛かるた」44枚は、そのうちの1割以上が繊維に 関するものです。明治初期から昭和の戦後まで、絹産業は日本経済を支えるひ とつの大きな柱でした。養蚕農家数と絹の生産量は群馬県が日本のトップだっ たようです。  今年(2014年)6月25日、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界文化 遺産に登録されました。(ドーハで開催されたユネスコの世界遺産委員会で6月21日 に決定、同25日に登録)  富岡製糸場は1872年(明治5年)に設立された日本で最初の官営製糸場 です。この世界遺産は眼に見えるもの、つまりハードが中心です。しかし、富 岡製糸場は眼に見えない技術、養蚕技術の開発によって支えられてきました。  養蚕技術の変遷を少しだけひも解いているうちに、興味深い事実に気が付き ましたので、少しだけ紹介していただきます。  なお、この記事は既報の【群馬 絹の里めぐり】の続編です。 内容が重複する部分がありますが、既報はハード面を主にご紹介し、本稿では メディアに取り上げられることの少ないソフト面(技術)に絞りました。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  世界遺産:富岡製糸場と絹産業遺産群   1.富岡製糸場(富岡市)   2.田島弥平旧宅(伊勢崎市)   3.高山社跡(藤岡市)    4.荒船風穴(下仁田町) gunma1.png  【上毛かるた より】 鶴舞う形の群馬県   つるまうかたちの ぐんまけん 繭と生糸は日本一   まゆときいとは にほんいち 県都前橋生糸の市   けんとまえばし いとのまち 桐生は日本の機どころ きりゅうは にほんの はたどころ 銘仙織出す伊勢崎市    めいせんおりだす いせさきし 日本で最初の富岡製糸 にほんでさいしょの とみおかせいし      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  余談ながら、NHKの大河ドラマ「八重の桜」に登場した新島襄の安中教会 は、富岡製糸場から約10キロほど北の安中市にあります。    平和の使徒 新島襄 (へいわのつかい にいじまじょう) s-20131031 annaka (1).jpg ←安中教会  ↓ s-20131031 annaka (2).jpg 2.19世紀における絹の生産地  絹の生産は3千年以上前から始まったようです。 中国が発祥地と言われています。軽くて着心地のよい絹織物は格好の貿易品と され、中東やヨーロッパまで数千キロの遠路、いわゆるシルクロードを運ばれ ました。  なお、シルクロードの語は19世紀末になってから使われるようになったと いうことです。 (今回、中国が申請した「シルクロード」も世界文化遺産となりました。中国は「シルク  ロード」に絡めて中央アジアの覇権を確立する狙いがあるのかも知れません。)  絹製品が中国から国外へ出るようになったのは紀元前2世紀頃と言われてい ます。製品は出しても生産技術の輸出を厳禁にしたのは当然でしょうが、密か に持ち出す者が登場するのも当然で、紀元500年頃には二人の僧侶がインド から蚕種を竹杖の中に隠し,東ローマの首都コンスタンチノープル(イスタン ブール)に持ってきたのが,中東やヨーロッパに蚕種がはいった最初だそうで す。8世紀以降にはスペイン、イタリア、スイス、ドイツ、フランス、オラン ダ、トルコなど、中東や欧州各国で養蚕が広まったようです。  富岡製糸場が設立された19世紀の生産国はどこだったのでしょうか。 欧州ではフランスとイタリアが主要生産国だったようです。欧州ではイタリア が先駆けて絹の生産に取り組んだようですが、これはベネチアが地中海を支配 していたためではないかと思います。明治維新後、1873年(明治6年)に は岩倉使節団が米欧歴訪中にイタリアを訪問し、当時のイタリアの養蚕、生糸 生産の様子を詳しく視察しています。  イタリアの生産拠点は南部から北部に移動したようで、19世紀にはイタリ ア北部が中心になっていたようです。ミラノの北にコモ湖という高級別荘地が あります。このあたりで作られたのが有名なコモシルクです。数年前に旅行で コモ湖を訪ねたとき、現在もコモ地区で養蚕をしているのか、と現地ガイドに 尋ねたら、現在は輸入に頼っているとのことでした。  フランスはイタリアよりも遅れて養蚕業が発展しました。フランスの養蚕業 は19世紀中頃(1853年)が最盛期だったそうである。  意外なことに、19世紀にはアメリカでも養蚕が行われていました。 ミシガン州デトロイトの近くの博物館を訪問した時、大きな1本の桑の木が立 っていました。その根元には、1810年にコネチカット州で最初の製糸工場 が作られた、との案内板ありました。 糸繰りの実演   そればかりか、近くの建物の中では  若い女性がお湯に漬けた繭から糸を紡  ぐ作業を実演していたのです。 ←糸繰りの実演  手前横長の箱の湯に漬けた繭から糸  を上に引き、後方で巻き取る s-blankmap02.jpg  アメリカではバージニア、ジョージア、コネチカ  ットなど、東部の州で養蚕が行われていました。  なんと、バージニアでは17世紀から養蚕が行われ  ていましたが、より収益の上がるタバコ栽培に替え  られたようです。南部の奴隷労働者には、細かい気  配りが必要とされる養蚕が向いていなかったという  事情もあったようです。   コネチカット州では18世紀から200年間ほど  養蚕が行われました。養蚕は夫人やこどもでも作業  でき、土壌と気候条件も合っていたためのようです。  ↑アメリカ東部1:ミシガン 2:コネチカット 3:バージニア 3.養蚕技術の開発  さて、日本における養蚕技術の開発をたどってみましょう。 まず、技術開発に関わる主な出来事の年表を眺めてみると次のようです。   * * * * * 養蚕技術の進展 * * * * *  1.江戸時代中期以降   :養蚕指導書の発行100冊以上  2.1848年(嘉永元年):養蚕秘録 フランス語版出版  3.1865年(慶応元年):大量の蚕種をイタリアに輸出(10数年間)  4.1868年(明治元年):養蚕新説 フランス語版出版   1872年(明治5年):富岡製糸場建設  5.1872年(明治5年):養蚕新論 (田島弥平・著)  6.1883年(明治16年):「清温育」法を確立(高山長五郎)   7.1905年(明治38年):荒船風穴に日本最大の貯蔵所  8.1914年(大正3年):一代雑種品種が普及   * * * * * * * * * * * * * * * *養蚕秘録 フランス語版出版  江戸時代の初期、南蛮貿易での絹製品の輸入には膨大な支出をしていました。 吉宗の時代になって養蚕が奨励され、養蚕技術の研究が進み、100冊以上の 養蚕指導書が発行されました。  「養蚕秘録」という指導書がフランス語に翻訳され、パリで出版されました。 1848年(嘉永元年)のことです。この年は明治維新よりも20年前、マル クス・エンゲルスの共産党宣言が発行された年です。ペリー率いる黒船来航の 1853年(嘉永6年)よりも5年前です。この指導書には写実的な挿絵が多 数掲載されていますので、読者を惹きつけたことでしょう。著者は、推測があ るものの、明らかではありません。 s-20110706textbook (1).jpg ←養蚕秘録  ↓ s-droppedImage_7.jpg 1868年(明治元年)には「養蚕新説」という指導書のフランス語版が出 版されています。  富岡製糸場の建設にはフランスからの指導を受けました。 近代化を急いだ幕府とイギリスに出遅れた対日貿易の拡大を目指したフランス の思惑が一致したためでしょうが、上記のような日仏間の技術交流が一役果た したものと思われます。 ■ 養蚕新論 の発行  清涼育という飼育法を説いた「養蚕新論」という指導書が1872年(明治 5年)に発行されました。 121207155024_0.jpg  著者は群馬県(現・伊勢崎 市)の養蚕家田島弥平です。  地元にはこの本の版木が保存され ています。  田島弥平旧宅は、今回登録された 絹産業遺産群のひとつです。 ←養蚕新論版木  なお、1865年(慶応元年)から10数年間にわたり、境島村から大量の 蚕種がイタリアに輸出されたそうです。 ■ 養蚕頻度の改善  蚕は気温が一定の温度以上になると卵から孵化します。空調施設のなかった 時代には孵化の時期を調節することはできなかったので、養蚕の時期は年1回 だけでした。富岡製糸場が長さ100メートルもの巨大な倉庫を2棟設けたの は、1年分の繭を保管するためでした。  明治末期になって養蚕時期が年3〜4回に改良されました。卵を低温で保存 し、必要な時期に孵化させる技術が開発されたためです。低温の保管設備とし ては、一年中ほぼ定温(2〜3℃)の荒船風穴が使われました。 20110628 gunma-pamphlet (3).jpg ←荒船風穴蚕種貯蔵所跡  現代人の眼からみれば、さして困難な工夫と は思われないかも知れません。しかし、それは コロンブスの卵みたいなもので、年1回を3〜 4回に増やしたことは産業上の大きな革命に近 い快挙と言えるでしょう。       荒船風穴の施設跡は今回登録された絹産業遺産群のひとつです。 ■ 一代雑種品種の普及  品質の良い絹を多量に収穫するためには、良い蚕種を選ぶことが基本です。 蚕種によって病気の罹り易さ、品質の良否、収量の多寡、などが左右されるた めです。  外山亀太郎(とやまかめたろう)という人が蚕の品種改良に取り組み、優れ た蚕種を開発しました。外山は1年間シャム(タイ)国に出張した折に、日本 種とシャム種の一代雑種が両親より格段と多収になることを確認し、1906 年(明治39年)にこれを蚕種製造に応用することを提唱しました。外山の開 発した一代雑種品種は1914年(大正3年)から普及に移され、昭和の初め には国内の全蚕種が一代雑種品種に代わっていったそうです。    一代雑種とは、雑種第一代の示す形質が両親のいずれよりも優れるが、その 子には引き継がれません。この一代雑種の利用は様々な植物の栽培に利用され るようになった世界的な大発明です。学術功労者に贈られる我が国最高の賞た る帝国学士院賞が、1915年(大正4年)、野口英世博士に授与されました。 米国から受賞のために帰国した野口は国民から大歓迎されました。野口英世の 名は一般人でもほとんどの人が知っているでしょう。しかし、同時に受賞した もう一人の科学者、外山亀太郎博士について知っている人は少ないかも知れま せん。私はつい最近知ったばかりです。   sanshuron1909.jpg ←蚕種論1909年刊     ↓外山亀太郎    toyamakametaro.jpg 4.おわりに  かつて中国からの絹製品に頼っていた日本は、江戸時代から200年近くに わたって続けた研究が実を結び、絹製品の産出国として世界の先端に立つこと ができました。富岡製糸場は研究者と実務者のたゆみない研究に支えられてき たと言えます。その日本では、養蚕農家も収繭量も、ほぼ絶滅に近い状態です。  2001年(平成13年)現在,繭は世界の約30か国で生産されているよ うですが,その主な国は中国、インドで、この2か国で91%が生産されてい るそうです。                       (2014年6月25日記)  ご参考:「富岡製糸場と絹産業遺産群」については       群馬 絹の里めぐり をご参照ください。  -----------------------------------------------------------------        この稿のトップへ  エッセイメニューへ  トップページへ